「楷(かいじゅ)の会」会報第13号
会報 第 13号
令和5年2月2日
三重県との関わり(1947~2001年)
官選知事から民選知事の時代(1947(昭和22)年)になり、東畑博士は三重県が郷里ということで自然に三重県政の政治・行政の顧問的存在にもなりました。
それは最初の民選知事青木理氏のときからで、青木氏は東畑博士の中学校の5年後輩にあたり、その関係もあり、青木知事(1947~1955年)の相談相手になりました。青木知事を支える人物として自分の弟子の田中覚氏を三重県の農地農林部長兼経済企画本部長に推挙しました。
青木知事の行き詰まりで、後任に東畑一党が田中覚氏の後ろ盾となり田中知事を実現させました(1955(昭和30)年)。田中知事(1955~1972年)が突如代議士に転進することになり、三重県政の混乱を収拾するため、当時の副知事田川亮三氏を知事へ推薦しました。
田川知事時代(1972~1995年)での県政への関わりは、三重県社会経済研究センターの会長としてであります。情報化時代に入りつつある時代に対応すべく、三重県にも経済、社会、文化についての情報収集と分析処理(シンクタンク)を持つべきということで設立されたもので、中山伊知郎博士(当時一橋大学名誉教授)を顧問として民間の活力をも積極的に取り入れた自由な研究期間としての機能を果たしました。
東畑博士は東京の中野に住んでいましたが、彼の両親はずっと嬉野町井之上に住んでいました。父吉之助が昭和30年に亡くなり、その数年後に母芳子が亡くなりました。
博士は家屋敷の処分を三重県に依頼し、その処分金の一部を彼の母校豊地小学校に寄付しました。さらに、処分金の一部は三重県農業技術センター(現三重県農業研究所)の中に東畑記念館(弟の謙三氏の設計)を建てるために寄付されました。蔵書も同時にそこに寄付されました。彼の死(昭和58年5月6日)後、遺族が寄贈したものと井之上の家にあった書籍もそこに加わり、約1万4千点もの書籍や資料が東畑記念館(1971年建設)の施設的価値をさらに高めることになりました。
この資料や書籍はきちんと整理されました。この資料を広く県民に供するため、また貴重な資料や学問的価値の高い資料も多く含まれていることから、現在は三重県立図書館に移管され、東畑精一関係資料として別置され、目録も作られています。
ミカン狩り (三重県立相可高等学校)
農業塾11期の第2回(10月8日)は「ミカン類」について学習しました。
その学習をさらに深めようと第3回(11月12日)は内容を変更し、「ミカン狩り(収穫体験)」をしました。
場所は相可高校果樹園でした。相可高校生産経済科の3年果樹専攻生(6名)が果樹園の概要やミカンの収穫の仕方を説明してくれ、ミカン(特に温州ミカン)について少し考え方が変わり栽培に興味と関心が深まりました。
ミカンの収穫のときは、専用のはさみを使い、果梗を2度切りして果実どうしが傷つかないようにしなければなりません。採ったミカンは収穫袋に入れ、いっぱいになれば袋の底を開いてコンテナに丁寧にいれます。それを繰り返し行うのがミカンの収穫でした。単なるミカンの収穫だけでもそれなりの技術がいることも学習することができました。
また、収穫しながらの試食もたのしい体験でしたが、自分が収穫したミカンをそのまま持ち帰るというのも大変魅力的でした。ミカン園に入ってから、私たち(農業塾)に付き添い、いろいろと指導してくれた相可高校果樹専攻生の皆様に感謝の一日でした。
松阪郷土文化会の研修会への協力
12月4日(日)に「松阪郷土文化会」の東畑精一博士をテーマにした研修があり、研修内容は東畑博士の生家の見学と東畑博士についての講演でした。
生家の見学では、東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」会員である中川電化産業(株)の役員の方々(河中様(社長)、太田様、中川様)等、「楷(かいじゅ)の会」事務局(森川、藤田)も説明に参加しました。「松阪郷土文化会」の皆様(参加者35名)は、手入れの行き届いた東畑生家(大地主)の大邸宅をゆっくりと見て回り、庭や各部屋の調度品や珍品を興味・感心しながら眺め、私たちの説明に耳を傾けていました。
生家の見学の後は、松阪市豊地公民館で「東畑精一博士について」の講演でした。「楷(かいじゅ)の会」の森川会長が東畑博士の生い立ちから、学校時代、東大の教官・留学、終戦後の活躍、農業基本法の成立、郷土への貢献等について約1時間の講演でした。堅苦しい内容も多々ありましたが、松阪郷土文化会の皆様は、真剣に説明を聞いてくれました。