「楷(かいじゅ)の会」会報第17号
会 報 第 17号
令和6年2月2日
浦城晋一先生 ~東畑博士の最後の弟子・学者~
昭和20年11月9日、マッカーサー司令部は、「農地改革の覚書
会報 第 16 号
令和5年11月2日
農地改革の話(2)~農地改革の実施~
昭和20年11月9日、マッカーサー司令部は、「農地改革の覚書」を発表し、政府に対して農地改革を実施するよう指令した。
そこで政府は、昭和20年12月28日に「農地調整法改正法律」を公布し、さらに徹底した農地改革を行うため、「自作農創設特別措置法」(昭和21年11月21日公布)、「農地調整法改正法律」の改正(昭和21年10月21日公布)を公布した。
「耕作者の地位を安定し、その労働成果を公正に享受させる自作農を急速かつ広汎に創設し、もって農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図ること」を目的とし、この目的を達成するため、全国の小作地262万町歩(全農耕地の4割6分)のなか、不在地主の持っている小作地86万町歩と、在村地主の持っている小作地176万町歩の中で地主の保有面積の限度を超える133万町歩、合計230万町歩(全小作地の8割強)を地主から強制的に買い上げて、働く農民に与えるとともに、さらに官有および民有の未墾地を開放することになった。
不在地主の貸付地の全部、在村地主の貸付地で、平均1町歩(北海道では4町歩)という保有限度を超える部分は全部買い上げられた。
また、自作農でも平均3町歩(北海道12町歩)を超える部分は買い上げの対象となった。
政府が買い上げた農地を売り渡す相手は、「自作農として農業に精進する見込みがあるもの」で、「買い上げたときに耕作している小作人」であった。売り渡しに予定した農地は、「国が買収した農地」であるが、そのほかに「国が買収した農地と地主の保有地を交換して取得した農地」、「一般の国有農地」もあった。
政府の売り渡しの資格のあるものは、農地を買って自作農になりたいものなら誰でもよく、自由に市町村農業委員会に申し込みができた。市町村農業委員会は売り渡すべき農地、売り渡しの相手方、売り渡しの時期および対価を定めなければならなかった。
また、農家が売り渡しを受ける面積には制限があった。売り渡す農地の面積は、1世帯につき自作地を含め3町歩(北海道12町歩)を超えないものということである。
農地改革は昭和23年12月31日までに完了することになっていた(農地改革のための法律が施行されてから2か年)。
また、農地の買収計画や売り渡し計画、遅くとも昭和23年10月31日(農地改革の完了の2カ月前)までに完了しなければならなかった。
買い上げられる農地と売り渡される農地の価格は、普通田で約760円(賃貸価格の40倍)、畑は約448円(賃貸価格の48倍)くらいであった。
農地を買い入れた場合、その代価の支払いは期間24年の年賦償還であった(代価の一部または全部を支払っての残額)。
全部を年賦払いにすれば、年賦金は1反あたり田が45円85銭、畑が26円3銭となった。
これに租税負担1反あたり、田13円78銭、畑6円68銭を加えて、合計で田59円63銭、畑32円71銭となり、現行小作料の田75円、畑41円70銭より負担が軽くなったのであった。
農地を売り渡した地主への報償金は、田は1反歩につき平均220円(賃貸価格の11倍)、畑は平均130円(賃貸価格の14倍)交付された。地主に対する農地の対価および報償金の支払いは、1世帯につき2カ年を通じて一定の金額(約4千円)以内は封鎖預金で支払われ、残りは農地証券で支払われた。農地証券は2年据え置き22年年賦で償還された。農地などの対価、報償金および現金払いや農地証券の交付の事務は日本勧業銀行で取り扱い、農地証券の償還は、日本銀行、郵便局で行われた。
農業塾(松阪市後援)第11期の修了式・記念講演
農業塾(松阪市後援)第11期の修了式・記念講演は、令和5年8月5日(土)に行いました。
場所は、本年度も、中川電化産業(株)の計らいで、東畑精一博士の生家を使わせていただきました。
修了式は、午後1時から修了式を行い、修了者には会長から修了証を授与されました。
記念講演は、煎茶道・黄檗皎上月流・家元の岡田皎上月(おかだ こうげつ)先生をお迎えして、演題は「お茶の歴史と煎茶道」でした。
日本のお茶やその歴史的な流れについてわかりやすくお話をしていただきました。
その後、家元とそのお弟子さんたちによる野点で、参加者に煎茶道の手前を披露していただき、記憶に残る充実した終了記念行事にしていただきました。
9月9日(土)から農業塾(松阪市後援)第12期が始まりました。
今年度は12名の受講者を迎え、開講式・第1回講座を東畑精一博士の生家で行いました。今年度も受講生の皆様の期待に応えられるよう、「楷(かいじゅ)の会」活動の一環として励んでいきたいです。
「楷(かいじゅ)の会」会報第16号
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会報 第 15号
令和5年8月2日
農地改革の話(1)~農地改革の目的~
明治維新以来、工業は非常な勢いで発達し工場の規模は驚くほど大きくなった。また、農業でも、西洋の農事が輸入され、農学が発達し化学的技術が普及して一反当たりの収量は相当多くなった。米は明治初年に一反当たり一石であったものが、昭和には平均二石と倍増した。しかし、それは品種の改良と肥料の施し方を中心とし、むちゃくちゃに人手をかけることによって生産が高められたもので資本醸成をもって生産力が高められたものではなかった。立派な機械農具を縦横に使っているアメリカでは農業人口一人当たりで34.5人分もの食料を生産しているのに、日本では農民一人当たりでわずかに1.9人分の食料しか生産することができていなかったのである。
日本の農業は昭和に入っても、何故相変わらず手で使う鋤や鍬を主体とし、牛馬を使うくらいがせいぜいで、経営の規模も大きくならず、農耕作業の機械化も行われず、昔のままの小農経営が続けられてきたのであるか。その中で、根本をなすと考えられるのは、農業経営の基本である土地制度が不合理であったということである。そもそも土地の利用配分および所有関係が合理的であったかどうかということが農業の発展には重大な関係があるが、それは土地所有制度によって強く左右されるものである。
わが国の農業にはいまだ合理的な近代的土地所有制度が確立していないので、それが農業の資本主義的発展の大きな障害となっていた。明治維新以降、農業だけは近代化が半封建的な地代のために阻まれて立ち遅れ、農業のやり方や農村の中には半ば封建的な時代遅れの制度がなお多く残っていたのである。わが国におよそ570万戸の農家があるが、その7割強は小作農家、自作兼小作農家であった。そしてその小作地はわが国の耕地面積600万町歩のおよそ半分に達していたのである。小作地の借賃(小作料)は現物で納めるのが通例で、その額は収穫量の半分という高いものであった。地主と小作人との関係は封建時代の領主と農民の関係に似て、小作人は地主に頭が上がらず、小作料はこれを「年貢」とか「上納」などと言って、昔領主に納めいたときと同じ名前で納めていた。そのため農民は地主の恩情にすがり卑屈とならざるを得なかった。これでは農民は独立の経営者となって、土地を買い入れたり、農業用の機械器具や役畜を取り入れ、農業の改善(農業の資本主義化)を図ることは難しかった。
これは自作農にも当てはまり、自分で経営するよりも、農地を細かく分割してたくさんの小作人に小作させた方が割がよいから、地主になろうとしてしまっていた。小作料が法外に高いので、地価がたいへん高く、せっかく自作農になっても、土地を買い入れた代価は小作料の何十年分を前借したものと同じになって、それは高い小作料が前払いとして一度に支出したものを毎年取り戻すに過ぎないのであった。だから一度凶作や恐慌に見舞われるとたちまち小作農に転落してしまうのであった。
また、わが国農家の一戸あたりの平均経営面積は1町歩そこそこでアメリカの400町歩、ソビエトの集団農場の1000町歩、カナダの56町歩に比べ、驚くほどに小さかった。このように経営規模が小さく、1枚1枚の田畑の面積が極めて小さく、しかも分散している原因も、時代遅れの土地制度(半封建的な高い小作料)が農業を支配して、耕地の集団化や経営規模が大きくなることを阻んできたのであった。
農業の発達を図るとともに農村の民主化を促すためには、何よりもまずこの時代遅れの土地制度を根本的に改革することを行わなければならなかった。そこで、昭和20年11月9日、マッカーサー司令部は、「農地改革についての覚書」を発表し、政府に対し農地改革を実施するように指令した。それは「日本の農業が近代的な農業に発展することを妨げてきた封建的な小作制度をなくし、小作人を開放してこれに土地を与え、平等の権利と労働に対する正当な報酬を得させ、農業の発達および生活の向上を図るようにせよ」ということであった。
ネッツトヨタ三重株式会社 農業BR事業への協力
「楷(かいじゅ)の会」活動の一環である「松阪市後援農業塾」は、11年を経過しました。その学習成果の蓄積をもとに、ネッツトヨタ三重株式会社の農業BR事業に協力することになりました。農業BR事業は当該会社の新しい顧客満足度の向上を目指した取り組みのことです。
今回は、とりあえず無農薬栽培を目標に、サツマイモの栽培をすることになりました。6月15日(木)に畦づくり、6月17日(土)に苗の定植をしました。社長を含め6名の社員が一生懸命作業をされ、紅あずま200本、安納芋100本の苗を植えることができました。今後、追肥、中耕、除草という管理作業を経て、10月には美味しいサツマイモの収穫となると思います。
東畑記念館の改修工事の安全祈願祭
「楷(かいじゅ)の会」の念願であった東畑記念館の改修工事が7月12日(水)から行われることになりました。
それに係る工事の安全祈願祭を6月30日(金)に香良洲神社で行っていただきました。
「楷(かいじゅ)の会」は建築主として2名(会長、副会長)が参加しました。設計・監理として株式会社東畑建築事務所2名(中村様、赤松様)、施工として不二建設株式会社2名(田渕様、奥村様)、来賓として三重県農業研究所2名(所長、副所長)にも参列していただきました。香良洲神社の小林宮司のお祓いのもと、祭典は滞りなく行われました。
東畑記念館の改修の完成は10月末ということです。
「楷(かいじゅ)の会」会報第15号
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会報 第 14 号
令和5年5月2日
明治の農村問題と柳田国男
二十世紀(明治34年)になると、日本の農業、特に米作をめぐって大きな事情の変化が起こり始めた。明治の初め以来、米には余剰があった。米は生糸や茶とともに輸出の主役を演じていた。ところが人口の都市化、工業化の増大、国民所得の増大に伴って、増産化されてきた米も輸出余力を持たなくなってきた。
むしろ凶作の年には外米を輸入する必要が生まれてきた。そこで、食料の自給自足の達成ということが日本の農政の目標になった。農業金融機関や農業団体の設立、耕地整理法や肥料取締法の制定、重要農産物同業組合の設立など将来の農政を支配する重要な施策が整えられたが、これらは食料の自給力の増進を目当てとしたものであった。
米の需要は年々強まっていったが、供給力はこれに伴わず、日本の米穀市場は「売り手市場」の性格を持つようになった。この場合、売り手として大きな役割を占めていたのは地主であった。農業界の声として出されてくるのは地主の声のみで、その発言は全農民に代わるものであった。
地主階層の意識として、食料自給力を強めること、すなわち産業資本的な農業開発を行うことは「労多くして効少なきこと」であった。米穀市場を有利な売り手市場に保っていきこと、すなわち米の供給を「不足がち」に保っていくことが「労少なくして報いられること多き」方法であった。供給を制約して希少性利潤にあずかることであった。
そのような時代背景の下で柳田国男は登場してきた。柳田国男(旧姓:松岡国男)(1875~1962年)は1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、農商務省農務局に就職した。そこでの数年間によって、柳田国男が農政問題に関心を持ち、農政論「時代ト農政」(明治42年)を公表する動機となった。
彼の批判は、まず農業の代表者というべき地主階層に向けられた。小作料の物納制度は、地主と小作人とによる収穫の危険の共同負担の制度であって、この共同負担は平等の経済主体のものではなく、地主と被官(家抱(けほう)、抱百姓(かかえびゃくしょう)、門家(もんや)、庭子(にわこ))という主従関係を維持しているものの負担制度である。そのような封建制的性質は米の物納制によって固定化され存続してきた。「年々の農事は地主が保護もする代わりにずいぶん干渉したもので、小作人の地位はあまり自由でなかった」のであった。
第二は物納制の作用に関するものである。小作料について、量は定められていても、その上中米の標準が決まってなかった。「小作人は升目さえ約束通りならできるだけ粗悪な米をだそう」とした。そこに「米質改良の意欲は湧いてこない」のであり、また「米納制度は小作人に作物栽培の自由選択を許さない」のであった。
今日では、この柳田国男の批判は一般的で皆の共有の認識となっているが、これは20世紀初頭の発言であり、生産増強的意識よりも米の供給制限的意識を強くしている寄生的地主に対して、米納制度の批判を通じて加えられた強力な痛棒であった。この意味で柳田国男はまさしく農地改革の先駆者であった。
「柳田国男の『時代ト農政』はあまりにも次代を先んじてかえって反響が少なかった。これを理解しうる時代になった時には、すでに古典となって直接に次代を導きえなかった。まことに運命の書となった。」
(東畑精一稿「この本」、朝日新聞、昭和35年6月5日)
農業塾(第11期)視察研修
2月11日(土)は、穏やかな好天に恵まれ、農業塾(第11期)の視察研修を行いました。
今回の研修先は、奈良県宇陀市にあるナント種苗(株)宇陀育種研究農場でした。松阪農業公園(ベルファーム)を定刻通り8時半に出発し、目的地に11時に到着することができました。育種研究農場の松尾様から育種の難しさや品種固定まで多くの年月がかかることなど、農場を回りながら説明を受けました。特にナント種苗(株)の品種のネーミングに独特のユニークさがあり、種子を購入しようとする気持ちを高められたような気持ちにさせられました。
その後、宇陀市の指定文化財となっている施設「薬の館」を訪れました。薬問屋の細川家の古民家で、藤沢薬品工業(株)(現アステラス製薬)の創業者の生家でした。創業者から3代の偉業を展示するとともに、昔懐かしいたくさんの薬の看板も展示され、古民家の価値を高めていました。
また、宇陀市唯一の国の天然記念物である「八房の杉」(桜実神社)も見学することができました。
巨木で主幹が8つある見事な杉でした。
当初予定した研修日程通りの視察研修なり、満足のいく研修でした。今回の研修のように、今後とも充実した農業塾になるよう皆で頑張っていくよう努力したいです。
「楷(かいじゅ)の会」会報第14号
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会報 第 13号
令和5年2月2日
三重県との関わり(1947~2001年)
官選知事から民選知事の時代(1947(昭和22)年)になり、東畑博士は三重県が郷里ということで自然に三重県政の政治・行政の顧問的存在にもなりました。
それは最初の民選知事青木理氏のときからで、青木氏は東畑博士の中学校の5年後輩にあたり、その関係もあり、青木知事(1947~1955年)の相談相手になりました。青木知事を支える人物として自分の弟子の田中覚氏を三重県の農地農林部長兼経済企画本部長に推挙しました。
青木知事の行き詰まりで、後任に東畑一党が田中覚氏の後ろ盾となり田中知事を実現させました(1955(昭和30)年)。田中知事(1955~1972年)が突如代議士に転進することになり、三重県政の混乱を収拾するため、当時の副知事田川亮三氏を知事へ推薦しました。
田川知事時代(1972~1995年)での県政への関わりは、三重県社会経済研究センターの会長としてであります。情報化時代に入りつつある時代に対応すべく、三重県にも経済、社会、文化についての情報収集と分析処理(シンクタンク)を持つべきということで設立されたもので、中山伊知郎博士(当時一橋大学名誉教授)を顧問として民間の活力をも積極的に取り入れた自由な研究期間としての機能を果たしました。
東畑博士は東京の中野に住んでいましたが、彼の両親はずっと嬉野町井之上に住んでいました。父吉之助が昭和30年に亡くなり、その数年後に母芳子が亡くなりました。
博士は家屋敷の処分を三重県に依頼し、その処分金の一部を彼の母校豊地小学校に寄付しました。さらに、処分金の一部は三重県農業技術センター(現三重県農業研究所)の中に東畑記念館(弟の謙三氏の設計)を建てるために寄付されました。蔵書も同時にそこに寄付されました。彼の死(昭和58年5月6日)後、遺族が寄贈したものと井之上の家にあった書籍もそこに加わり、約1万4千点もの書籍や資料が東畑記念館(1971年建設)の施設的価値をさらに高めることになりました。
この資料や書籍はきちんと整理されました。この資料を広く県民に供するため、また貴重な資料や学問的価値の高い資料も多く含まれていることから、現在は三重県立図書館に移管され、東畑精一関係資料として別置され、目録も作られています。
ミカン狩り (三重県立相可高等学校)
農業塾11期の第2回(10月8日)は「ミカン類」について学習しました。
その学習をさらに深めようと第3回(11月12日)は内容を変更し、「ミカン狩り(収穫体験)」をしました。
場所は相可高校果樹園でした。相可高校生産経済科の3年果樹専攻生(6名)が果樹園の概要やミカンの収穫の仕方を説明してくれ、ミカン(特に温州ミカン)について少し考え方が変わり栽培に興味と関心が深まりました。
ミカンの収穫のときは、専用のはさみを使い、果梗を2度切りして果実どうしが傷つかないようにしなければなりません。採ったミカンは収穫袋に入れ、いっぱいになれば袋の底を開いてコンテナに丁寧にいれます。それを繰り返し行うのがミカンの収穫でした。単なるミカンの収穫だけでもそれなりの技術がいることも学習することができました。
また、収穫しながらの試食もたのしい体験でしたが、自分が収穫したミカンをそのまま持ち帰るというのも大変魅力的でした。ミカン園に入ってから、私たち(農業塾)に付き添い、いろいろと指導してくれた相可高校果樹専攻生の皆様に感謝の一日でした。
松阪郷土文化会の研修会への協力
12月4日(日)に「松阪郷土文化会」の東畑精一博士をテーマにした研修があり、研修内容は東畑博士の生家の見学と東畑博士についての講演でした。
生家の見学では、東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」会員である中川電化産業(株)の役員の方々(河中様(社長)、太田様、中川様)等、「楷(かいじゅ)の会」事務局(森川、藤田)も説明に参加しました。「松阪郷土文化会」の皆様(参加者35名)は、手入れの行き届いた東畑生家(大地主)の大邸宅をゆっくりと見て回り、庭や各部屋の調度品や珍品を興味・感心しながら眺め、私たちの説明に耳を傾けていました。
生家の見学の後は、松阪市豊地公民館で「東畑精一博士について」の講演でした。「楷(かいじゅ)の会」の森川会長が東畑博士の生い立ちから、学校時代、東大の教官・留学、終戦後の活躍、農業基本法の成立、郷土への貢献等について約1時間の講演でした。堅苦しい内容も多々ありましたが、松阪郷土文化会の皆様は、真剣に説明を聞いてくれました。
会 報 第 12号
令和4年11月2日
横井時敬 (よこいときよし)
明治の初めから多数の農業技術に関する農書(研究論文)が出版されてきました。
その多くは埋没したり記憶から消え去っています。
ほんの僅かなものはその時代の特質を表現し、それぞれの時代の日本の農業の形成に大きな影響を及ぼしたものがあります。
東畑精一博士はそのような農業技術に関するものとして、第一に「横井時敬の種籾塩水選法」を挙げています。
横井時敬について、東畑博士は以下のように記していますので、概略を紹介します。
「稲のことは稲に聞け。農業のことは農民に聞け。」という有名な言葉を遺した横井時敬(1860~1927年)は熊本県の藩士の生まれで、幼年時、熊本洋学校でアメリカ人ジェーンズ(L.L.Janes)の教えを受け、早くから西洋の学問に目を開くことができていました。
駒場農学校(東京帝国大学農学部の前身)が1878年に設立されると同時に入学、1880年に卒業しました。
1882年に福岡県立農学校の教諭になり、後に校長になりました。
そこが機構改革で勧業試験場となったので場長になりました。
塩水選法はこの間の仕事でありました。
米作技術に関しては労農(篤農家)が活躍していて、その中で林遠里(はやしえんり)は「勧農社」なる私塾を設け、米作について有名な寒水浸法(種籾を寒水に浸す)(明治3年)、土囲法(種籾を土中に蓄える)(明治5年)を発明し、その普及を図っていました。
これは林遠里の経験とか実践をそのままほかにも広めていこうとするもので、いわば経験農法でありました。
駒場農学校で西洋人教師から研究合理主義を教えられてきた横井時敬は、経験をそのまま普遍化することができず、科学的に実証された合理農法を提示しなければ気がすみませんでした。
彼は、林遠里の両方式、殊に寒水浸法について実験を繰り返しましたが合理的科学的に実証できる成績を得ることができないことを知りました。
そして彼自らは良い種籾を選び出すことこそ、米作改良、稲作増収の途であるとし、その方法が塩水選法であるとしました。比重1.13の塩水に種籾を投じて、その沈んだ重いもののみを種籾とするのでありました。
簡単な技術と言ってしまえばまさにその通りでありますが、これこそ米作について何百年の伝統と経験とを破った明治初期の技術革新の最たるものでありました。
すでにあるものの中から良い籾を選び出すのであって良い籾を創るというのではなかったのでありました。
横井時敬はその後まもなく農商務省の技師となって福岡を離れました(1889年)。
しかし役人嫌いの彼は在官1年余りで退いて『産業時論』を主宰して健筆を振るうことになりました。
1899年に東京帝国大学教授に、1910年には東京農業大学の初代学長にもなりました。
福岡では横井時敬が去ったあと、その功績を称えて福岡県立農学校の校庭に塩水撰碑を建てました(1910年)。
この碑は後に、福岡市郊外の県立農事試験場に移されています。
農業塾第10期から11期へ
令和4年8月6日(土)、農業塾(第10期)の修了式を、中川電化産業(株)の計らいにより、東畑精一博士の生家の一室をお借りし行いました。
修了式の記念講演には中川電化産業(株)社長の河中英祐様に講師をお願いしました。
河中先生は、東畑精一博士や生家のこと、中川電化産業(株)の概要など、丁寧かつ分かりやすく説明していただきました。
また、大きな生家の各部屋もご案内していただきました。
その後、記念研修として、銘木・巨木として有名な飯南高校のハナノキ、水屋神社の大クスを見学し、飯高町にある(茶王)大谷嘉兵衛翁資料館に行きました。
大谷嘉兵衛翁資料館では、大谷嘉兵衛顕彰会事務局長の小林典子様から、大谷嘉兵衛の功績や偉業、地元への貢献等をわかりやすく丁寧なご説明を受けました。
さらに、大谷嘉兵衛の生家跡、記念碑(銅像)、長楽寺(果柄の檀那寺)、墓などもご案内していただきました。
松阪市後援・農業塾 第11期
9月8日(土)からは農業塾(松阪市後援)11期(令和4年度受講者10名)が始まりました。
開講式に引き続いて第1回講座も中川電化産業(株)のご厚意により東畑博士の生家で行うことができました。
受講者の皆様の期待に応えられる農業塾を目標に、農業塾活動に励んでいきたいです。天候にも恵まれた中で、第11期の開講を記念して「楷の木」を囲んで記念撮影しました。
会報 第 11号
令和4年8月2日
東畑精一博士と彼の師「シュムペーター」について (その2)
東畑博士のドイツ留学は昭和3年のことでした。「経済学を身につける」ためにボン大学のシュムペーター教授を訪ねましたが、シュムペーター教授はハーバード大学に行っていてボン大学にはいませんでした。しかし、幸運にも1年前から留学に来ていた中山伊知郎博士(一橋大学名誉教授)がいて、東畑博士は彼に「経済学の初歩から学ぶ」ことができたのでした。翌春、中山博士は日本に帰りましたが、代わりにシュムペーター教授が戻ってきて、講義やゼミナールを受けることができました。
シュムペーター教授の講義は特有なもので、上着もなしに無造作に壇上に上がり立つが早いかすぐ講義を始めるのである。毎回理路整然とした内容の打ち切りのもので、いつも四つ折りの紙片を手に持っての講義であった。演習の時も講義と同じで教授の独壇場で、学生は何も発言できなかった。学問のことでは教授は非常に厳格であり、「一介の学生としてはたいへん近寄りがたく感じた。」と言っていた。しかし、シュムペーター教授は教室以外では話題が豊かで話術が達者な人の好い人物であったということです。こうして1年が過ぎたころには、博士は「経済学が何であるかが少しわかってきた」のでありました。昭和4年の秋に帰国することになり、その際、教授は東畑博士に「できる限り、自分の勉強、精神の状況を通知してよこすように」言われていたので、博士は日本に帰ってきてもシュムペーター教授と交渉を持っていました。
シュムペーター教授との深い師弟関係を示すように、東畑博士は、教授に関わった邦訳本を多く出しています。「経済発展の理論」(1937年)、「経済学史」(1950年)、「十大経済学者」(1952年)、「経済分析の歴史」(1955年~1962年)などがありますが、特に、イノベーション(技術革新)や企業家機能による社会形態の変化を著した「資本主義・社会主義・民主主義」(1951年~1952年)は経済分野でたいへん好評を博した本で、盟友中山伊知郎博士と共訳で発表し、日本でも特に成功を収めた本になりました。
この書は、シュムペーター教授が現代社会に内在する経済学的所要問題に対して、彼なりの分析と解答を与えたもので、「二十世紀の経済学に値するもの」でありました。教授としてはできるだけ読みやすくを意図し、資本主義の社会的経済的変化を明らかにしようとするものでした。教授の40年間の研究の総括でありました。ドイツでは1942年に第1版、1947年に第2版、1950年に少し改定された第3版が出版されていました。
第8回 松阪の偉人たち展
第8回松阪の偉人たち展が令和4年7月6日~10日までの5日間、松阪市文化財センターで開催されました。今年は8回目になり、今年の対象諸氏は蒲生氏郷、三井高利、竹川竹齊、松浦武四郎、本居宣長、大谷嘉兵衛、東畑精一、原田二郎の8人で、彼らの展示とその遺徳が顕彰されました。私たちの東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」は例年のごとく東畑精一博士の展示を担当しました。
展示した内容は、「東畑精一博士の略年譜」、「東畑精一博士の家系図」を中心として、彼の活躍や活動の記録を、生い立ち、学校時代、学者としての成果、三重県とのかかわり等に分けて掲示し、それを補完する形で写真や著書、関連書籍を置き、さらに彼の交友関係に関する諸物(掛け軸や置物、賞状など)でした。
梅雨が明け、蒸し暑い日、雷雨の影響での土砂降りの雨の日、晴天で高温の日などで、展示会としてはあまり天候に恵まれませんでしたが、5日間を通じて400余名もの多くの人たちが見学に来ていただきました。
松阪市後援・農業塾 第11期生の募集
東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」では、松阪市後援の令和4年度農業塾の受講生を募集します。
8月20日締切りですが、定員になり次第募集を終了します。
〇実施場所・時間 松阪農業公園ベルファーム内 実践農場
毎月第2土曜日 午前9時~12時
〇実施内容 毎月テーマの下で座学(講義)と実習を行います。
〇講師 「楷(かいじゅ)の会」会長 森川茂幸(農学博士)
「楷(かいじゅ)の会」副会長 藤田育美
〇受講料 5,000円(1年間)
・募集の詳細、申込書は下記ホームページをご覧ください。
会 報 第 10 号
令和4年5月2日
東畑精一博士と楷(カイノキ)
東畑博士は「庭には珍木中の珍木である楷(カイノキ)がある(博士は楷を「かいじゅ」と称していました。(日本経済新聞』(昭和32年3月25日))と紹介していました。
楷(カイノキ)はウルシ科で、和名をランシンボクといいます。古くは「淮南子」という古書に出ていて、幹や枝はまっすぐに伸びて曲がらないと書かれ、当時から珍しい木でありました。このような楷(カイノキ)は孔子と縁が深く、楷書のような風貌を呈していることから「学問の聖木」とされています。この木の繁殖はたいへん難しく、挿し木や取り木では発根せず、実生でもわずかな確率で発芽するにすぎません。用途は意外に広く、新芽や若葉は菜のように食べることができ、茶のように飲めるということです。種子から油がとれ、材は硬くて、杖、笏、碁盤などに利用できるようです。
日本では、明治から大正ごろ、林学の大家であった白沢保美博士(1868年~1947年)が中国の泰山にある孔子廟から楷(カイノキ)の実を持ち帰って、林業試験場で苦心惨憺して数本の芽を出させた。その貴重な苗を、孔子に縁の深いところ(湯島聖堂、金沢文庫、佐賀県佐久市の孔子廟など)に配ったのが、日本での楷(カイノキ)の始まりでありました。
東畑博士家にある楷(かいじゅ:カイノキ)は、戦前東大の園芸学教授浅見与七博士(1894年~1976年)が中国の曲阜にある孔子廟前にある楷(カイノキ)の大木を見、あたりに落ちていた実を数個ばかり持ち帰り大学で発芽を試みたものでありました。東畑博士は発芽した5~6㎝くらいの苗鉢をもらってきて、自宅の庭の日当たりのよい風が防げるところに植えました。順調に育って夏には庭の緑陰を作るまでになりました。
東畑博士は「わが名はすぐに消えていく。しかし楷(かいじゅ)は今から数百年経っても大きく残り、曲阜の親木くらいにはなるかもしれない。」と言っていました。浅見博士が発芽させた苗の中では、残ったのは東畑博士家のものだけだったらしい。
「2」の価値観
「楷(かいじゅ)の会」の命名者によると、東畑精一博士を深く考察する中で、見出されたものに「2」があり、「2」は数字とも文字ともとれますが、単なる数字・文字ではなく、東畑精一博士の価値観であると命名者は捉えています。
この価値観ともいえる「2」は、東畑精一顕彰会の命名やその後の会の運営にも深くつながっています。
命名者の深い考察の中で、会の名称は木の名前とするということを見い出し、「2」の木であるものが楷(かいじゅ)であることを解読するのは命名者にとって困難なことでした。
その木は葉が2(対生状)であり、樹皮が2を描き、2期性(常緑期、落葉期)であることを考察で得て、ネムノキは樹皮が異なり、クスノキは常緑で異なるなど、一致するものを探す中で、楷という木が博士の生活の中にあったことがわかり、命名にいたりました。
また、「2」を基調とした会の運営が会の発展につながるものと考えています。
楷(カイノキ)の記念植樹
東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」は2020年2月に発足しました。名称に使っている楷(カイノキ)を関係場所に植樹しよう思っていましたが、楷はたいへんな珍木で、繁殖がたいへん難しい樹木で、なかなか手に入れることはできませんでした。
しかし、全国各地の知人たちに入手を依頼していた結果、1月に九州の方で栽培されていた楷(カイノキ)の幼木をうまく入手することができました。
2月は東畑博士の誕生月(2月2日生まれ)でもあり、今月は2という数字(2022年2月)が並んでいると同時に、顕彰会「楷(かいじゅ)の会」(2020年2月に発足)の2周年に当たります。そのことから八方手を尽くして入手した楷(カイノキ)を東畑博士の関係場所に記念植樹をすることにしました。
まず、2月2日(水)(午後2時)に東畑博士の生家の前庭に、東畑博士の誕生(123年前の2月2日)と「楷(かいじゅ)の会」の2周年を記念して楷(樹高1.2m、1本)を植樹しました。植樹に当たっては現在所有されている中川電化産業(株)の社長はじめ関係者に植樹していただきました。植樹の穴を掘り、木を植えたのち、施肥やかん水を行い、支柱を建て、煉瓦で株の回りを囲みました。記念植樹の看板は後日中川電化産業(株)に作成していただきました。
次に、東畑記念館の庭園には2月2日に「楷(カイノキ)」を仮植し、3月1日(火)に株式会社東畑建築事務所の所員(辰巳様、赤松様(お二人は「楷(かいじゅ)の会」会員です。)により本植えすることができました。当日は雨降りでしたが、植樹の周りに盛り土をして、肥料を少し施しました。
さらに、農業塾の2月講座(2月12日)でサトイモや畝作り実習を学習した後、「農業塾」開講10周年の記念行事として「楷(カイノキ)」を植樹しました。コロナ感染者の高止まりで欠席者が多い中、学習意欲の高い参加者を中心に実習農場に植樹しました。2月という時期は植樹や植え替えに最適な時期でもあり、春になると勢いよく新芽を出してくれると思いました。
第1回総会の開催
「楷(かいじゅ)の会」が発足して2周年になりました。この会をさらに深化発展し永続性を図るため、総会(4月2日)を開催し、会員の皆様の当会へのご理解とご協力をお願いすることになりました。
コロナ禍の中での一堂に会しての開催は好ましいとは言えないので、書面決議という方法で開催したところ、会員全員の賛成をいただき、4月2日から新しい規約のもと活動することになりました。今後ともよろしくお願いします。