「楷(かいじゅ)の会」会報 第1号
会 報 第 1号
令和2年2月2日
東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」の発足
この度、東畑精一博士を顕彰することを目的として、「楷(かいじゅ)の会」を発足しました。
楷(かいじゅ)は「カイノキ」とも言われ、中国原産のウルシ科の落葉高木で、孔子との関りが深く、「学問の聖木」とされています。
孔子は世界四大成人(釈迦、キリスト、孔子、マホメット)の一人とされ、彼の言行を記した「論語」には、学問に関する多くの有名な言葉が残され、今なお多くの人に感銘を与えています。孔子の墓所(孔子廟)は中国山東省にあり、そこにはカイノキが植栽されています。このようなことから、カイノキは孔子と縁が深く楷書のような風貌を呈していることから「学問の聖木」とされました。
日本へのカイノキの伝来は、1915年当時の東京大学園芸学教授、浅見与七博士が孔子廟で採取した種子を日本に持ち帰ったことに始まり、苦心の末発芽させ、その苗を当時の東京都林業試験場(現:林試の森公園)に植えたのが最初とされています。その苗が、孔子にゆかりのある地や学校(湯島聖堂、閑谷学校、足利学校など)など、学問に関係の深い各地に配られ、同時に、当時東京大学農学部教授であった東畑精一博士にも贈られ、東京都中野区の自宅に植えられました。しかし、カイノキの栄養繁殖は難しく、種子繁殖でも非常に発芽率が悪いことから、日本国内ではいまだにごく少数で、国内でも数えられる程度の「珍木」です。
東畑精一博士は、このような珍木で孔子ゆかりの学問の聖木を自宅の庭でたいそう大切に育てていたことから、その遺徳をしのび東畑精一顕彰会である本会を「楷(かいじゅ)の会」とすることにしました。
東畑精一博士について
東畑精一博士は、三重県一志郡嬉野町(現:松阪市嬉野井之上町)の中堅地主の長男(父吉之助、母芳子)として、明治32年(1899年)に生まれました(逝去は昭和58年5月6日、84歳)。兄弟には、敬二(速水敬二、国学院大学教授でヘーゲル研究家)、謙三(著名な建築家)、四郎(農林官僚で農林次官を務めた)がおり、姉妹には多美子(三井物産のエリート山路氏に嫁し、子息山路健は有名な農政・食料ジャーナリスト)、喜美子(京都大学教授で哲学者、三木清の妻)がおります。
彼は豊地小学校から三重県第一中学校へ進学し、その後第八高等学校を経て、東京大学で学びました。大正12年に東京大学助手に採用され、大正13年に東京大学助教授になり、アメリカ、ドイツに留学する機会に恵まれました。留学では、シュムペーターに師事し、近代経済学の学問的方法を学びました。昭和8年には東京大学教授になりました。その時に著したのが博士論文「日本農業の展開過程」でした。この書は、農業と経済を結び付け、農業の動態変化を経済変動として分析したもので、農業経済の分野では現在でも突出した不朽の名作として特に有名です。
第二次世界大戦後は、第一次吉田内閣の農相として入閣を要請されたりもしました(引き受けませんでした)。また、学問的業績と人柄から政財界とのつながりも深く、農林漁業問題調査会や農政審議会の会長として、戦後農政や農業基本法の制定に大きな役割を果たすとともに、農林省農業総合研究所長(初代)、米価審議会議長、発展途上国移動大使、農林水産技術会議会長、アジア経済研究所長、税制調査会長、中央社会保険医療協議会長、鯉渕学園長、『日本農業年鑑』監修者、『日本農業発達史』監修者、その他多くの農業団体の知事や顧問等、たくさんの公務や要職に就きました。
三重県との関りは、田川知事体制の確立と三重県社会経済研究センターの設立(昭和49年5月)でした。特に、三重県社会経済研究センターでは、彼は会長になり、中山伊知郎博士(経済学者)を顧問に招聘し、自由な研究機関として県勢振興に努力しました。
東畑精一博士がこれらの職務を全うできたのは、農業や経済に対する豊かな知識と温かい人間味とのバランスの取れた人柄であると思います。昭和39年に学士院の会員になり、昭和55年には農業経済の分野で初めて文化勲章を受章しました。
【PDF】「楷(かいじゅ)の会」会報第1号
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