「楷(かいじゅ)の会」会報 第2号
会 報 第 2号
令和2年5月2日
東畑精一博士のルーツについて
東畑精一博士は、一志郡豊地村大字井之上(現松阪市嬉野井之上町)の東畑吉之助、妻芳子の長男として、1899年2月2日に生まれました。兄弟に精一、敬二、謙三、四郎、姉妹に多美子、喜美子がいました。敬二は速水家の養子となり哲学一途に生涯を送ったヘーゲル研究家であり、謙三は全国的に高名を博した建築家で、四郎は農林官僚として農地改革を立案した農政の大御所でした。姉の多美子は三井物産のエリートの山路氏と結婚し、その子息の山路健は著名な食料、農政ジャーナリストでした。妹の喜美子は哲学者の三木清と結婚しました。このように兄弟姉妹は知識人として粒のそろった人たちばかりでした。そして、その頂点に東畑精一博士がいたことになります。
このような博士達の頭脳はどこから来ているのでしょうか。そのルーツの始まりは、矢土源助だといわれています。源助は紀州田丸領城下新田町の重臣の家より分家した半士半商の人物でした。彼は先妻に死別し、後妻に松阪平生町の木綿仲買人村田氏の娘岸(きし)を迎えました。源助と岸との子にやす、勝之(矢土錦山)、松(まつ)がいました。三人はともに頭がよく多少風変わりな人物でした(浦城晋一「東畑精一先生を想う」<伊勢新聞、昭和58年11月>から引用)。
矢土の家は先妻の子が跡を継いでいたので、勝之(錦山)は自由奔放にして漢学者、漢詩人となりました。さらに岩倉具視の推挙で太政官になり、のち伊藤博文の秘書兼詩侶にもなった人物です。長女のやすは、上層百姓の東畑家の分家として井之上に居を構えた平三郎(精一の祖父)と結婚しました。平三郎は当時松阪商人の長谷川店に勤務していました。平三郎は丁稚からたたきあげ、手代、番頭、一番番頭まで進んだ真面目、実直な人物でした。やす(精一の祖母)は、学校は出ていなかったけれど、勝之(錦山)の影響で、和漢に通じて学問には理解がありました。また、家事については、箒やはたきをほとんど待ったことがなく、不精であるがあまり細かいことにはそれほど重要と見なさない人でした。平三郎は長谷川店の東京店の番頭として勤務していましたが、安(やす)は井之上にとどまり、平三郎が送金してくる金(給金、一時金)で土地を買い続け、高利貸し・質屋を経営して産をなしました。そして、田畠30町歩、山林50町歩を持つ中堅地主になりました。
平三郎と安(やす)の子弟は、男は吉之助(精一の父)だけで、長女米(よね)、次女花(はな)、三女恒(つね)、四女貞(さだ)があり、いずれも両親(精一の祖父母)の長所を併せ持ち、頭も優秀でした。吉之助(精一の父)は、地主の惣領として井之上に留め置かれ、芳子(精一の母になる)と結婚しました。芳子は一志郡の県議上島氏の娘で、京都高等女学校を出た才媛でした。一流好みの常識ある知識人だったといわれています。吉之助、芳子夫婦には、地主としての収入は結構あったが、二人の生活は意外と質素でありました。しかし、子供の教育にはお金を惜しんでいませんでした。
このようにして、精一たちの兄弟姉妹には、矢土家からの頭脳、徹底性、東畑家の実直、生真面目、上島家の一流好みの常識が混合されたことになりました。平三郎(精一の祖父)は早くに亡くなったので、やす(精一の祖母)、吉之助(精一の父)、芳子(精一の母)が精一たちの優秀な兄弟をつくっていったということになりました。
NPO法人三重スローライフ協会「農業塾」
東畑精一顕彰会「楷(かいじゅ)の会」は三重スローライフ協会「農業塾」を母体にして運営することになっています。
そもそもこの「農業塾」は「懐かしい未来がここにある」を基本テーマにして、2012年9月1日(土)に始まりました。開講期間は9月から翌年8月までで、年度ごとに受講生を募集して今回で第8期を迎えています。
講座内容は、座学と実習を組み合わせ、その時期に応じた野菜や草花を対象にしています。実習は、松阪農業公園(ベルファーム)内の農場を利用して、実践的な内容を組み合わせ、作物(野菜、草花)づくりを行っています。
また、2月と8月の講座では研修旅行を催し、「農業塾」の内容をさらに深めるような取り組みも行うことにしています。
なお「農業塾」についてはインターネット(「三重スローライフ協会農業塾」)で情報発信していますので、ご覧ください。
【PDF】「楷(かいじゅ)の会」会報第1号
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