「楷(かいじゅ)の会」会報 第3号

会 報  第 3 号
令和2年8月2日


矢土錦山(やづちきんざん)について


 東畑精一博士たちの優秀な頭脳は矢土家から来ていることは、会報第2号で少し触れたが、ここではその矢土家を有名にした、矢土錦山(嘉永4(1851)年~大正9(1920)年)を紹介したい。

 矢土錦山(名は勝之という)の父は、矢土源助といい、紀州藩田丸領城下新田(現玉城町)の半士半商の人であった。重臣の家より分家し、藩の御用商人をしていた。源助は妻が亡くなり、後妻に岸(松阪平生町の木綿仲買人村田氏の娘)を迎えた。源助と岸の間に保(やす:東畑平三郎(精一の祖父)と結婚)、勝之(錦山)、松(浦城家へ嫁ぐ)の三子ができた。源助が亡くなると、源助の家は先妻の子が家督を継いだ。勝之は藩の購読塾で学んだ後、山田(現伊勢市)の暦屋にあずけられ、その傍らで松田雪柯の「三餘学舎」で学んだ。そこであまりにも学に熱中しすぎたので養家を出された後、津藩の「有造館」で土井聱牙の下で詩史を研究することになった。明治2年には、推挙により上京し三条実美(明治の元勲の一人)の書生を務め遊学した後、津藩の有造館に戻り講官となった。

 明治5年、「廃藩置県」とともに岩倉具視の推挙で太政官出史の命を受け、巌谷修一等修史官の下で内閣府賞勲局庶務記録係となった。また、勝之の高い作文能力が認められ詔勅などの作文青書も行った。また、歴史家の川田剛(漢学者でもある)の門人となるとともに、漢詩では森春涛(雑誌「新文詩」を発行していた)の門人ともなり、明治の漢詩文壇の仲間入りを果たした。そして、詩誌に投稿したり、新聞の詩欄を担当したり、詩社や上級官僚達、詩会等にも招かれて漢詩の指導もした。しかし、勝之の卓越した諸能力はあまり求められなかった。

 そのような状況の中で、伊藤博文(初代内閣総理大臣)は勝之の才能を評価した。勝之は明治21年に帝室制度取調局書記兼帝国憲法発布記念顕頌事務取扱の辞令を受け、上級士官(一等俸)としての勤務となった。明治21年に第二次伊藤内閣が発足した。その時、勝之は内閣属で内閣総理大臣秘書官室に勤務した。明治27年には陸軍大本営付を命じられ、明治28年に日清講話条約(下関条約)の締結のための伊藤博文に随行した。

 明治29年になって、勝之は賞勲局に戻ることになったが、病気を理由に官吏を辞職し三重に戻ることとなった。その戻り先は、射和の阿波曾の浦城家だった。勝之の妻は蕙(浦城将義の次女で明治12年に結婚)といい、蕙の要望で阿波曾の浦城家を前々に購入していた。家屋敷・庭を手入れし、これを「澹園(たんえん)」と名付けた。

 明治31年に伊藤博文の推挙もあり、第3次伊藤内閣で勝之は代議士にもなったが、その年の解散のためその地位を失ってしまった。明治37年になると滄浪閣(大磯の伊藤博文の別邸)に呼び出され、伊藤博文を助けることになった。明治39年には日韓講話条約のための特命大使となった伊藤博文に京城へ幕賓随行もした。

しかし、阿波曾の家のこと、病気のこともあり、明治44年には阿波曾に戻り文詩への回帰が始まった。

この当時(毎時松~大正半ば)は欧化主義の高まりで、漢学漢文等の地位は低くなったが、書と結合した掛け軸や額、画、景勝紀行や碑文において漢文章の持つ拡張の誇大が適し、勝之の文筆に対する需要は衰えることがなかった。こうして大正9年に没するまで(晩年の10年間)、悠々自適の阿波曾の詩人として過ごすことができたのであった。


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 三重スローライフ協会 理事   藤田育美(三重県)
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【PDF】「楷(かいじゅ)の会」会報第3号
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