「楷(かいじゅ)の会」会報 第9号
会 報 第 9号
令和4年2月2日
東畑精一博士と彼の師「シュムペーター」について
東畑博士は、大正13年に東大助教授になり、その時海外留学の機会を与えられました。大正15年から2年間ほどアメリカへ留学していました。その時ハーバード大学で講義していたドイツのボン大学教授シュムペーターに出会い、「よかったら勉強しに来なさい」と言われていました。
彼のドイツ留学は昭和3年のことでした。日本を1月に出発して、5月に当地(ベルリン)に着きました。アメリカでは「何でもかんでも吸収してやろう」でしたが、ドイツ留学では「経済学を身に着ける」という決心をして、特に気を引き締めて学問生活を送りました。昭和3年の秋になって、ようやくボン大学のシュムペーター教授を訪ねましたが、シュムペーター教授はハーバード大学に行っていてボン大学にはいませんでした。
しかし、幸運にも1年前から留学に来ていた中山伊知郎博士(一橋大学名誉教授)がいました。二人は自然と親しくなり、東畑博士は彼に「経済学の初歩から学ぶ」ことができたのでした。翌春、中山博士は日本に帰りましたが、代わりにシュムペーター教授が戻ってきて、講義やゼミナールを受けることができました。東畑博士は「この時ほど夢中にがむしゃらに勉強した時はなかった」と述懐していました。
シュムペーター教授は1883年2月8日にオーストリア・ハンガリー帝国のモラヴィアで生まれました(亡くなったのは1950年です)。父は富裕な織物製造業者でありましたが、早死に(彼が4才のとき)し、母の手で育てられました。
ウィーン大学で法学、経済史、法制史、経済学を学び、1906年、07年とイギリスに遊学し、大英図書館でさらに経済学の研究を深めました。
1908年エジプト連合裁判所で弁護士の職に就き、エジプト王女の領地の管理からカイロに赴きました。25才で『理論経済学の本質と主要内容』を著し、一躍経済学者としての地位を築いたのでした。
1909年にウィーンに戻り、ツエルノビッツ大学教授になり、1911年にはグラーツ大学の教授になりました。その時に、『経済発展の理論』と『学説及び方法の理論』を著しました。第一次大戦後、一時オーストリアの大蔵大臣やピーダーマン銀行の総裁になりましたが、1925年以降ボン大学の教授(このころ東畑博士が留学していました)になりました。
1932年にアメリカに渡り、ハーバード大学の教授となり、1939年に『景気循環論』を完成させ、1942年に『資本主義、社会主義、民主主義』を著し、大きな成功を収めました。これは資本主義の機能と成功の素晴らしさについて述べ、また技術革新(イノベーション)や企業家機能による社会形態の変化の方向を万人向けに解明したものでありました。
アメリカでは計量経済学会の会長(1934年~41年)の職にも就き、1948年には外国人では初めてアメリカ経済学会の会長に就任し、また国際経済学会の初代会長にも就任しました。現在ではケインズと並び称される二十世紀の偉大な経済学者であったと言われています。
「寄せ植え」公民館教室
年末になり、この時期にふさわしい「寄せ植え」の出前講座を行いました。
伊賀市寺田市民会館からはクリスマスから新春をイメージした「花の寄せ植え」ということで依頼を受け、令和3年11月21日、当該市民会館で講座を開催しました。(講師は「楷(かいじゅ)の会」事務局です)
「寄せ植えの基本事項」を説明した後、受講者の皆様はそれぞれの想いにあった寄せ植えをすることにしました。3種のコニファーと4色のパンジー、ビオラを用い。そこから自分の好みに合ったコニファー1株、パンジー・ビオラは7株を選び、受講者それぞれの想いに合った寄せ植えを楽しみました。
津市稲葉公民館では、令和3年12月21日に「正月飾り」をテーマに寄せ植えをしました。
盆栽づくりした松や梅を中心に、南天、竹(笹)をあしらい、新春にふさわしい福寿草や藪柑子(ヤブコウジ)の植物を添えた豪華なものです。
正月飾り等の基本を学習したのち、受講生の皆様は私たち講師のやり方を見真似しながら新年を迎えるにあたっての豪華な「松竹梅の寄せ植え」を完成することができました。
【PDF】「楷(かいじゅ)の会」会報第9号
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