「楷(かいじゅ)の会」会報第22号

会報 第 22号
令和7年5月2日


東畑精一の幼少時代


 東畑精一は、吉之助(父)、芳子(母)の長男として、1899年(明治32年)、一志郡豊地村井之上(現:松阪市嬉野井之上町)に生まれました。当時の豊地村は、人口1,800人、350戸で、8つの集落(豊地、井之上、八田、堀之内、下之庄、薬王寺、一志、上野)からなっていました。

 東畑精一の井之上集落は、約30戸からなっていて、2つの集団に分かれていた。東地区(6戸)、西地区(20数戸)からなり、東地区には東畑家が4戸、大森家が2戸で構成されていました。東地区は幕末には支配層が住み、東畑家の一つは庄屋であり、精一の家はその家(本家と呼んでいた)から分かれたものでありました。他の二つの東畑家とは姻戚関係はありませんでした(現在東畑家で残っているのは本家だけである)。大森家は「地士」の称号を与えられていた家柄で、馬琴の師匠であった山東京伝の母の出どころであります。

 東畑精一は、明治38年4月に豊地小学校に入学しています。明治41年度には6か年の義務教育が始まりました。登校するときは集落の一か所(男女別々で)に集まって、一年生を先頭に一列に組んで学校まで歩いて行きました。当時、洋服や靴を着けていたのは、官員さん、巡査さん、先生(下駄ばき)しかありませんでした。登校の途中で洋服を着た人に出会ったら、一同が止まって、上級生の号令で、お辞儀をしました。普通は草履履きであったが、雨の日は裸足でした。小学校の上級生になると自分の草履は自分で編んでいました。勉強用具は、石盤と石筆でした。鉛筆(芯がすぐ折れるような)はありましたが貴重品で、色鉛筆などはありませんでした。

 東畑精一の小学校時代は、日露戦争後で、学校から帰ると、戦争ごっこをよくしていたらしいです。また、東畑家の裏側を中村川が流れていて、竹藪から竹を採ってきて釣り道具を作り、魚とりもしていました。小学校時代、一クラスは男女40人でありました。精一は真面目少年で、地主の子としての遊びを強いられもせず、近隣の仲間と田園や山野を走り回っていました。小学校6年になると、進学に対して放課後多少の特訓を受けるとともに、家に帰ってからも勉強を教わったということです。しかし、当時は今のようにやかましい入学試験騒ぎが、先生、親、子にもなかったようでした。 (『私の履歴書』 昭和54年、日本経済新聞)


出前授業


  • 三重県立相可高等学校

12月19日(木)に相可高等学校の生産経済学科3年生の科目「農業経営」の中で、戦中戦後の農政に深くかかわりがあった人物として、東畑精一博士の紹介をいたしました。東畑精一の生い立 ちから学校時代、海外留学や博士論文などを講義形式で説明し、日本の国や三重県に貢献したことについても、紹介しました。生徒にとっては少し難しい内容もありましたが、学んでいる教科と関連あることが多く、熱心に聞いてくれたように感じました。特に、このプレゼンテーションの内容を、年度末の卒業試験にも出しましたが、生徒の皆様は水準以上の得点を採ってくれ、価値ある講義になったと思いました。

  • 三重県立飯南高等学校

2月18日(火)に飯南高等学校の郷土環境系列の2年生に、当該高校の佐藤先生の配慮で、郷土の偉人として「東畑精一博士」を紹介する機会がありました。生い立ち、学生時代、海外留学、戦後の活躍、東畑記念館の建設と蔵書の寄贈などを話しました。特に海外留学でシュンペーターに学び、シュンペーターの経済理論の継承者として、戦後の日本農業に問題解決に貢献したことを取り上げるとともに、シュンペーターの提唱したイノベーション、創造的破壊の担い手である企業者について詳しく触れました。最後に、三重県に東畑記念館を建て、蔵書をそこに寄贈して、三重県農業の発展に寄与したことも話の中に入れました。


「八重紅しだれ桜」の満開について


令和6年2月2日の東畑記念館の改修工事落成式で、ご来賓の皆様にお手植えをしていただきました、八重紅しだれ桜が4月上旬に満開となりました。

この桜は、公益財団法人岡田文化財団様からご寄贈をいただきましたものでございます。
昨年の夏の猛暑を乗り越え、見事に開花し、これからの東畑記念館のシンボルとなるよう、大きく育ててまいりたいと思います。


第5回 東畑記念館一般公開について


第5回目となる東畑記念館の一般公開を下記のとおり行います。

多くの皆様のご来館をお待ちしております。

令和7年8月2日(土) 10時~15時


「楷(かいじゅ)の会」会報第22号
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